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働くことの意味

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働くことの意味

私の家の積読に「働くことの意味」という新書がある。

2020年に京大生の友人の家に行った際、近くの古本屋でふと見つけて購入した本だ。

その本の購入時はまだ働いていなかったということもあり、少し読んで眠くなってしまった。以来、手に取っていない。

ただ、最近その本を私が読む日が近いような予感がしている。

働くことの苦痛

私は信念として「未来のために今は苦痛を甘受する」ということはできる限りしたくないと思っている。

例えば「受験に合格するために今は辛い受験勉強に集中する」というようなことはしたくない。今この瞬間が楽しくなければ意味がないと思っている。

勉強は楽しんでしたい。幸いなことに、これまで勉強していて楽しめないことはあまりなかった。(というのは半分ウソで、解剖学など楽しめなかった科目もたくさんあったが)

労働も楽しんでしたい。それどころか「労働を生きがいにしたい」ぐらいに思っていたが、どうにもなかなか楽しめない。

楽しめない理由は複合的で、自分の中でもまだ解きほぐせていない。

ただ、まず第一に自分のコミュニケーション能力の稚拙さによる苦痛がある。

学校という環境は、たくさんの同格の人間と少しの目上の人間(教師)で構成されている。それに対して、働きだすと特に若手の頃は同格の人間はほぼおらず、たくさんの目上の人間(上司)に囲まれる。

学校の同級生はほぼ世代が同じで共通項が多く、多少礼節を欠いても許され、私の人事権を握っていない。上司については以下省略としよう。

よって、労働の場においては楽しいコミュニケーションは容易でないと感じている。

次に、自分のするべき業務が明確でないことによる自己有用感の低下がある。

どうやら世の中にはやることが明確でない労働、やっても何に役立つのか分からない労働がたくさんあるようだ。現に今の私もそのような状態におかれている。

自分が働いても誰の役にも立たない状態で、自分自身働いていて楽しいわけではない。すると、翌月に振り込まれる給料ぐらいしか「働くことの意味」はなくなる。

やはり「働くことの意味」は給料でしかないのだろうか。

第三に、現在の業務が自分の興味の範囲から外れているという問題がある。少なくとも向こう2年間は業務内容を選り好みすることはできないので、楽しめないのも仕方がないのかもしれない。

ただ、ずっと興味の範囲に近い業務ができないとなると、やはり異業種に転職することも考えた方が良いのかもしれない。

自分のやりたいことを労働にできる人はごく少数だと分かってはいるが、自分の精神の未熟さゆえまだ真に納得できていない。

まとまらないままズラズラと書き並べてしまったが、とにかく働くことが辛いと感じているのだ。

とはいってもお金が必要という現実的な問題もあり、信念と折り合いをつけながらだましだまし働いていくのだろう。

EXOのWhat a Lifeという歌の一節が最近妙に頭にこびりついているので、最後にそれを書いて終わりにしたいと思う。

나는 놀려고 일해(私は遊ぶために仕事をする)

일도 놀 때처럼 해 너는 어때(仕事は遊ぶようにする、あなたはどう?)