「日曜の朝」は宇多田ヒカルの4枚目のアルバム「ULTRA BLUE」に収録されている。
このアルバムは起承転結でいうと転のような位置付けで、初期のR&Bを軽やかに歌う最も有名な「宇多田ヒカル」とはかけ離れた、音の数が多く重めの曲が多い。
しかしその中で日曜の朝はわりと初期に近い軽めの曲である。
歌詞の内容は雑にいうと日曜の朝のようなゆるい愛。このゆるさがずっとずっと続いてほしい、というようなものである。
おもしろいのはその先である。この歌では日曜の朝の良さを表現しそれを求める一方で日曜の朝を否定しているのだ。
この歌に繰り返し出てくるフレーズに
「なそなぞは解けないまま
ずっとずっと魅力的だった」
というものがある。ここで注目すべきはこの文が過去形であるということだ。
つまりなぞなぞはもう解けてしまったのだ。
基本的になぞなぞは必死になって考えるものではない。仲の良い人と暇潰しにゆるーく考えるものだ。そしてなぞなぞは答えを言ってしまったらその時点で終わる。つまり「なぞなぞが解ける」ということはゆるく流れる時間を終わらせてしまう、ということだ。
今はゆるく流れる時間が終わってしまっていて、魅力に欠けているのである。しかし解けてしまったなぞなぞを解けていない状態に戻すことはできない。
ゆるく流れる時間を取り戻すことはできないのである。
だから「ジグソーパズルは完成しないままずっとずっと魅力的だった」などという歌詞では駄目なのだ。ジグソーパズルは1度完成させても、何度でもやり直して楽しめる。しかしなぞなぞはそれができない。
また、終盤にある
「締め切りとか打ち合わせとか
やることがある方が僕は好きだ」
という歌詞も印象的だ。
宇多田ヒカルさんは何かで
「自分は日曜にも仕事があって休めないので日曜に休める人への羨ましさも『日曜の朝』に込めている」
というようなことを言っていた。
つまり上記の歌詞は自分を納得させて現実を受け入れるための歌詞なのだ。
それはみんなが休む日曜の朝に休めないという現実だけではない。ゆるく流れていた魅力的な時間が終わってしまったという現実も、なのだ。
終わってしまったゆるく幸せな時間を思い出しその頃に未練たらたらな一方で、過ぎたことは取り返せないと自分に言い聞かせて前を向こうとしている、そんな全然ゆるくない一面が「日曜の朝」にはある。
「前を向いていればまた会えますか」と昔の出来事を繰り返す(=再会)ことをほのかに願う一方で、「私たちにできなかったことをとても懐かしく思うよ」ともう過ぎたこととして過去をばっさりと切り捨てる、Passionと少し構造が似ている。