とけろぐ

ペンギン・ハイウェイで子供が大人になっていく様子に感動した

ペンギン・ハイウェイ(映画)がAmazon Prime Videoに登場していたので見た。

この映画を一言でいえば、ペンギンを使って世界の裂け目を修復する宇宙人(歯科医院の助手のお姉さんに扮している)に恋する少年の物語だ。意味不明である。

この映画にはリアリティなんぞというものはまるでない。

一般的な小学生は教室でチェスはしない。と思う。

現代の一般的な郊外には子供が都合よく遊べるような裏山なんて滅多にない。と思う。

自販機に同級生を縛り付けるいじめは笑って済ませられるようなものではない。と思う。

ただし頭が良い子供(アオヤマくん、ハマモトさん)は、その親も学者のような知識層であるという描写だけは妙にリアルで少し悲しい。

だがしかし、なぜ子供が大人になっていく様子というのはこんなにも人の心を揺さぶるのだろうか

私が今、その終わりにいるからなのだろうか。

主人公アオヤマくんのように私が大人になるまでにあと何日か数えてみたところあと約200日であった。なんとアオヤマくんの約19分の1!

アオヤマくんは大人になるまでの残り3800日で、もっともっと賢くなれる、前に進んでいけると信じている。

私は大人になるまでの残り200日で、もっともっと賢くなれるとも、前に進んでいけるとも、確信することができない。

大人になる過程の3600日で私は未来に対する無邪気な希望を失ってしまった。

アオヤマくんが小学4年生の夏の研究の結果「お姉さんとはもう一緒にいることができない」ということを知ったように、大人になるということは「できないことを知る」ことなのではないかと思う。

しかし大人になることがただ限界を知って打ちのめされることを意味するのだとしたら、それはあまりにも悲しい。

そこで重要なのが、アオヤマくんのお父さんの「世界の果ては内側に折り畳まれているのかもしれない」という言葉である。

この言葉は超弦理論の次元の折りたたみを彷彿とさせる。

しかし敢えて人生訓のように捉えてみる。自分の果て、限界は遥か遠くにあってその先に何も無い断崖絶壁のようなものではなく、自分の内側に折り畳まれているに過ぎないのだ。自分の考え方次第でいかようにも定められる。もしどうにもならないものだったとしても限界の先にもまた何かがある。

もっともっと大人になれば、大人になること即ち限界なんてさしたる意味をもたないことが分かるのかもしれない。

そう考えると、大人になることもそんなに悲しくはないのかもしれないな。

もしくは・・・私はもしかしておねショタが好きなのだろうか。