8年ぐらい前に初めて読んで以来、何度も読み返している本である。
(単純に所有している村上春樹作品がこれだけであるという理由なのだが・・・)
初読のときは小学生ぐらいだった私も、気づけばマリの年齢を追い越してしまった。
それほどの月日を重ねても、さっぱり分からない本である。
アフターダークで描かれているのは、日が出ているときに働いて日が沈んだら休むという「ヒトらしさ」を喪失してしまった現代人の悲哀だと私は考えている。
有り体にいえば、現代文明批判の小説なのではないか。
ここからは、そのような観点からこの小説で気になったところを取り上げていく。
6時50分の章に
「三日月は(中略)西の空に浮かんでいる。」
という描写があるものの、三日月は朝に西の空で見ることはできない。
三日月という言葉は、厳密な意味での三日月だけでなく、「下弦の三日月」や新月と上(下)弦の間のすべての月を指すこともあるが、それら全て朝に西の空で見ることはできない。
本来活動しない夜の時間帯に活動するようになった、すなわちヒトらしさを喪失した現代人のメタファーとして出るはずのない時間・場所に出ている三日月が用いられているのではないか。
予期せぬ月経というヒトらしさによって、与えられた「役割」を果たせなかった郭冬莉に対して白川は暴力を振るう。
滅茶苦茶に力任せに殴ったために白川は自分の手まで負傷している。
社会で与えられた役割を果たすためにヒトらしさを奪い取られた白川の無意識的な反逆心の表れだと考える。
自分を傷つけるという予定外の行動によって、ヒトらしさを損なわせる現代社会に反抗しているのだ。
自分のヒトらしさの表れである手の疼きをその後何度も気にしている。
現代社会によって奪われた自分のヒトらしさを白川が取り戻す日はそう遠くないことが暗示される。
そしてそのような瞬間が訪れるのは、おそらく中国人マフィアに発見されたときである。
*
現代社会によってヒトらしさを奪われた人間の姿は「顔のない男」という表現で描かれている。
この小説において顔はヒトらしさの象徴だと考えられる。
現在、白川は顔を失いかけている。コムギ・コオロギによると白川は「普通っぽい」顔で印象に残らない。
しかし、中国人マフィアは顔を頼りに、他の誰でもない白川という1人の人間を見つける。
そのため、白川は中国人マフィアに見つけられた瞬間に自分の顔(=ヒトらしさ)を取り戻すのである。
マリは普段は日が昇っているときには活動して、日が沈むと眠っている。
この小説の中では、日が昇っていても沈んでいても活動できなくなった、つまりヒトらしさが完全に損なわれてしまった姉・エリのヒトらしさを取り戻すためのヒントを闇の中で探している。
ガツガツとした競争社会に馴染めず登校拒否になってしまったこと、「ケイタイ」を持っていないことにも表れているように、マリはヒトらしい人物として描かれている。
また、マリがエリとともに住んでいるのは「日吉」である。
マリには現代社会を生きる人々が「お日様の下で生きる」というヒトらしさを取り戻すことへの希望が込められている。
この文中で「ヒトらしい」という表現を多用しているが、これをヒトとするか生き物とするか人間とするかで非常に迷った。
そもそも人間らしさとは何か、生き物らしさとは何か、ヒトらしさとは何か、私にはよく分からない。
しっくり来ていないものの、これ以上に適切な表現を思いつかなかったので「ヒトらしさ」という表現を用いている。