とけろぐ

芥川龍之介「芋粥」を読んだ

はじめに

芥川龍之介「芋粥」を読んだ。

あらすじはここそこに書いてあるので割愛する。

私は芋粥なるものを食べたことはないのだが、この話の中で描かれる芋粥はとてもおいしそうだった。要するに山芋を甘い汁で煮るだけのようなので、今度作ってみよう。

ところで、不思議と「芋」というものは、人にあたたかさと不器用さ(芋臭いという言葉があるが)を感じさせる。土の中で根を張ってじっくりと栄養を蓄えるからか?なら人参でも大根でもいいと思うのだが、なぜだろう?

「芋粥」という話は何を表しているのか??

人間にとって願望はただ満たされるだけでは不十分で、満たされる過程も満足いくものであったときに初めて本当に満たされる。ではその満たされる過程に満足するためには・・・などと考えていくと深みに入り込み、結局人間の願望は満たされない。

この話はそのようなことを表しているのではないかと思った。

物質的にも地位的にも満たされているにもかかわらず、それだけでは飽き足らず自分の力を誇示しようとする利仁も、永遠に満たされることがない人間の姿そのものである。

自分を踏みつけた人に恵んでもらった芋粥を喜んで食べる狐とは対照的だ。

ただ1つ引っかかる部分がある。それはなぜ五位が芋粥をほとんど食べないうちに吐き気を催したのかということである。

五位が芋粥を飽くるほど食べてから嫌悪感を抱いたなら、この話はただ「人間の願望とは永遠に満たされないものだ」(人間の願望は満たされるまでが美しい)という解釈で捉えられる。しかし芋粥をほとんど食べないうちに吐き気を催したということは、五位は願望を満たすことができなかったというよりも満たすことを拒否したのである。なぜ五位は願望を満たすことを直前で拒否したのか。

この引っかかりを解消するためにはどう考えればいいのだろう。

私はまず五位は自分の芋粥を食べたいという大切な願望が満たされないことに気づいて強い自己嫌悪もしくは絶望を感じて、それが吐き気に変わったのではないかと思った。しかしそれでは何となく弱い気がする。

以下の[One Size Fits All 思考録]「芋粥」 芥川龍之介 -人間は変化よりも安定を求める-というブログ記事の解釈は興味深い。

五位は冷遇が続いたので、欲望を素直に実現できなかっただけだと思われる。即ち、「人間は長年一定の環境にいると、変化よりも安定を求めてしまう」ということが本質的なテーマであると思われる。

この解釈であれば五位が願望の成就を拒否した(というよりも拒否せざるを得なかった)ことの説明がつく。

しかし、この解釈だけで捉えようとすると、満たされない人間と満たされる狐の対比など他の多くのことがうまく説明がつかなくなってしまう。はて?

私が今日考えたのはここまでである。芋粥でも食べながら、またじっくりと考えたい。