先日、シン・エヴァンゲリオンを(3回)見に行った。
3回見て心の整理がついたのでもう見ることはないと思う。
シン・エヴァンゲリオンを見たことは、私にとって重要な出来事だと思うので、感想のようなものを書いておく。
私はもともと宇多田ヒカルのファンで、宇多田ヒカルが主題歌を提供していることからエヴァンゲリオンに興味をもった。
2014年(13歳)の5月頃に初めてテレビシリーズを見た。思春期の自分には共感することが多く、あっという間にエヴァンゲリオンのファンになった。というよりもエヴァンゲリオンが頭から離れなくなったという方が適切かもしれない。
それ以来、テレビシリーズ・旧劇場版・新劇場版を繰り返し見ている。考察などもそれなりに読んだ。
シン・エヴァンゲリオンは考察するというよりも感じるタイプの映画だと思った。そのため、細かい考察はせずに感じたことをずらずらと書いていく。
私の中のユイのイメージといえば
「全ての命には復元しようとする力がある。生きていこうとする力がある。生きていこうとさえ思えば、何処だって天国になるわ。」
「この子には、明るい未来を見せておきたいんです」
「エヴァは無限に生きていられます。(略)たった一人でも、生きていけたら…、とてもさびしいけど、生きていけるなら」
このようにきれいな言葉で語られる生命というものに対する強い執着や興味によって、メンタルの弱い夫(ゲンドウ)をドン底に突き落とし、息子(シンジ)を不幸にしたマッドサイエンティストである。
一方で新劇場版では、いつかやってくる、人類のために息子が犠牲になるときに自分が身代わりになるため、初号機で待機する良き母である。
最初はあまりに新旧でユイの立ち位置が違って混乱した。
しかし、実はどちらのユイも根本は同じなのかもしれない。
旧ユイは生物全体のために自分(とその家族)を犠牲にした。
新ユイは息子のために自分を犠牲にした。
どちらでも、ユイは誰かのために自分を犠牲にしている。
シンの最後でのミサトさんの行動も含めて、それがエヴァンゲリオンにおける「母」という存在なのかもしれない。
ネオンジェネシスによって人が空から戻ってくるシーンはルネ・マグリットの「ゴルコンダ」を連想した。
ちょうどエヴァにどっぷりだった中学生時代にマグリット展を見に行ったので、感傷的な気持ちになった。
ちなみに、マグリットと同様にシュルレアリスムの代表的な画家であるサルバドール・ダリの絵とエヴァンゲリオンの類似性を指摘している方は以前からいたようだ。
考えてみるとエヴァンゲリオンのテーマは、無意識世界と現実の統合を目指すシュルレアリスムの概念にとても似ている。(実際にシンにおけるアディショナルインパクトの目的は虚構と現実を等しくすることだった。)
中学生の私、あるいは高校生の私であったなら「カップリング、マジでクソ!!!」などと騒いでいたと思うが、今の私はそういう気持ちになれなかった。
カップリングがないと、世の中に我々が生まれてくることはない。認めたくない事実だが、カップリングは人間の根源的な営みなのかもしれない。
そう理解するようになったからこそカップリングにあまり嫌悪感を抱かなかった。
そんな自分に対して「大人になったな」と思うと同時に寂しくなった。