とけろぐ

2016年10月の日記

10月6日

怠け者はプログラマーに向いている。
そんなの嘘だと思う。
「これめんどうだな」と思っても、その効率化ツールを作る方が多くの場合よっぽどめんどうだ。

友達に、私(これを書いている人のこと)は20代前半で死にそうだと言われた。ずっと前から自分が大人になる未来が見えなかったので妙に納得してしまった。最近異様に生きることへの執着が強まっているのは死が間近に迫っているからだったのか。

あと数年で死ぬといわれても何をすべきなのかしたいのか分からない。とりあえず結婚して子どもがほしい。子どもがいたら自分の死んだあとの未来を感じられるからだ。しかしそれ以外に特にやりたいことがない。

10月17日

最近読んだ膵臓がんの人のブログの「あぁ自分はそういう役割だったんだ」(若くして膵臓がんを宣告された感想)というのが頭から離れない。早死することに対して「そういう役割」。その人は実際に亡くなっている。重い。なんと言葉で表していいのか分からないけれどすっと冷たい空気が私を通り抜けていく。

いつ死ぬかは分からない。多分私たちは意外と死に近い。最近劇症型心筋炎や脳腫瘍に興味があってよく調べているのだが、そうすると今普通に生きているのが不思議に思えてくる。

いつ死ぬか分からないのになぜ努力をしなければならないのだろうか。努力とは未来指向のものだ。なぜあるか分からない未来のために我慢を強いられるのか。でも未来を指向するのをやめることは今を捨てることでもある。今のために未来を見ている。そう自分を納得させる。そう考えないとすべてがだめになってしまいそうだから、そう思い込む。

中国に行った。9日間つらかった。やはり私は団体行動・親密なコミュニケーションが苦手だ。私はできないことばかりだ。できていると思ったことが普通にできていないのだ。普通はイヤホンガイドをなくさない。博物館で退屈してイライラしない。ホストマザーにハグされてパニックになって硬直しない。しかしできないことを数えても仕方がない。

できないことばかりでも生きていくしかない。期待してはいけない。生きていくのは辛いことばかりだ。そしてその生きていくという辛さを我慢してもその先には何もない。死ぬだけだ。

人生は絶望的だ。何も良いことはない。損して終わりだ。
それでも人は楽しいと思ったり安心したり開放的な気分になったり良い予感を感じたりする。そのどれも本当はないものだ。楽しさなんてない。安心できる場所もない。全てから解放されることはなく私たちはいつもいつまでも不自由だ。良い予感なんてものは幻覚だ。未来に良いことなんてない。未来は辛いことばかりだ。
すべて勘違いだ。勘違いで私たちはぬか喜びしてなんとか生きていける。それならそれでいい。
たまに賢くなって勘違いに気づいて絶望する。でもまたすぐにバカに戻って勘違いをして喜ぶ。そうして気づいたらすべて終わっている。死んだあとのことなんて知ったこっちゃない。もう全てどうでもいい。これでいいじゃないか。